フェルディナント・ホドラー展
展示内容

スイス人画家が見た、終わらないリズムの夢

フェルディナント・ホドラー(1853-1918)は、19世紀末のスイスを代表する画家です。国内での絶大な人気に加え、近年ではフランスやアメリカでも相次いで個展が行なわれるなど、その存在にはあらためて国際的な注目が集まっています。


ホドラーは、世紀末の象徴主義に特有のテーマに惹かれる一方、身近なアルプスの景観をくりかえし描きました。また、類似する形態の反復によって絵画を構成する「パラレリズム」という方法を提唱したホドラーは、人々の身体の動きや自然のさまざまな事物が織りなす、生きた「リズム」を描き出すことへと向かいました。今回の展覧会は、ホドラーの画業をたどりながら、世紀転換期のスイスで生まれた「リズム」の絵画を体感する場ともなるでしょう。


日本とスイスの国交樹立150周年を記念して開催される本展は、日本ではおよそ40年ぶりに開催される最大規模の回顧展となります。ベルン美術館をはじめ、スイスの主要な美術館と個人が所蔵する油彩、素描など約90点により、ホドラーの芸術の全貌に迫る、またとない機会となります。

Chapter 1
光のほうへ ― 初期の風景画

1853年にスイスのベルンに生まれたホドラーは、7歳で父を亡くしたのち、母の再婚相手だった画家のもとで、幼くして絵画の手ほどきを受けました。14歳でトゥーンの風景画家フェルディナント・ゾンマーに弟子入りすると、1871年からはジュネーヴでバルテレミー・メンに師事し、フランスの写実主義やバルビゾン派の絵画に傾倒します。こうして風景画家として出発したホドラーは、19世紀のスイスで慣習的だった風景表現からはすぐに脱し、新たに戸外の光のもとで、みずからの眼に映る世界を描くようになります。1878年にはスペインなどを旅し、故郷スイスでは感じることのできない地中海世界の強い光も経験します。さらに1880年代以降の作品には、後年のホドラー自身の絵画を予告する、湖面に反射/反映する木々などのイメージが現われてきます。


《インターラーケンの朝》

《インターラーケンの朝》
1875年、油彩・カンヴァス、ベルン美術館
Kunstmuseum Bern, Schenkung Stiftung Gemäldesammlung Emil Bretschger

《マロニエの木》

《マロニエの木》
1889年、油彩・カンヴァス、ジュネーヴ美術・歴史博物館
©Musée d’art et d’histoire, Ville de Genève ©Photo: Bettina Jacot-Descombes

田舎道に立つマロニエの木々が光を浴び、水面にその姿を反射させています。上下対称に浮かび上がる実像と虚像。ホドラーはこれ以降、そうした自然の世界に見られる事物の「反射」や「反映」、形態の「反復」や「平行」という現象に惹かれていきます。

Chapter 2
暗鬱な世紀末? ― 象徴主義者の自覚

若きホドラーの日々には、暗い影がつきまとっていました。少年期から青年期のホドラーの傍らには、つねに「死」があったからです。1885年までに彼は、父ばかりでなく、母と兄弟のすべてを結核のため失っています。あるいはそのためかもしれません、ジュネーヴの詩人ルイ・デュショーザルとの出会いなどを機に、ホドラーは1880年代半ばから、眼に見える世界よりも、眼には見えない人間の内面や精神活動を重視する象徴主義の思想へと急速に接近します。その結果、1880年代のホドラーの絵画には、「憂鬱」や「内省」、そして「死」のイメージがくりかえし描かれることになります。


《傷ついた若者》

《傷ついた若者》
1886年、油彩・カンヴァス、ベルン美術館
Kunstmuseum Bern, Geschenk des Künstlers

草原に裸体の青年が横たわっています。よく見れば、後頭部からは血が流れ、白い衣に褐色の染みをつくっています。彼はすでに死んでいるのか、それともまだ生きているのか。本作は「善きサマリア人」の物語を描いた作品から派生したものだったと考えられますが、ここでは聖書の物語性は退き、画家の視線は若い男性の肉体そのものに向けられています。

《病み上がりの女性》

《病み上がりの女性》
1880年頃、油彩・カンヴァス、ヴィンタートゥール、オスカー・ラインハルト美術館アム・シュタットガルテン
Photo: SIK-ISEA (Philip Hitz)

Chapter 3
リズムの絵画へ ― 踊る身体、動く感情

人間の内面や心理に惹かれ始めたホドラーは、単に暗鬱した世界に閉じこもったのではありませんでした。「良きリズム」という意味をもつ《オイリュトミー》(1895年)以降、ホドラーは、身体の動きによって表わされる人間の感情、そして運動する身体が織りなす「リズム」の表現に向かいます。このようなホドラーの関心は、スイスの音楽教育家エミール・ジャック=ダルクローズによる「リトミック」など、当時生まれつつあった前衛的な舞踏の思想とも呼応するものでした。ホドラーはまた、自然の世界にはさまざまな秩序が隠されており、類似する形態の反復や、シンメトリーをなす構造がいたるところに存在すると考えていました。彼はそれを「パラレリズム」(平行主義)と呼び、絵画のシステムとして応用していったのです。


《感情 III》

《感情 III》
1905年、油彩・カンヴァス、ベルン州
© Kanton Bern

互いに似たところがありながら、少しずつ違った身ぶりを見せる4人の女性。彼女らは前進しているようにも、踊っているようにも見えます。奥行きを欠いて上方へ広がる地面には、豊穣や美を暗示するポピーの花が無数に咲いています。女性の身体がリズミックに連鎖するこの構図は、先立って制作された《オイリュトミー》と対をなすもので、ホドラーによる「生」のイメージを視覚化しています。

《オイリュトミー》

《オイリュトミー》
1895年、油彩・カンヴァス、ベルン美術館
Kunstmuseum Bern, Staat Bern

落ち葉の散った晩秋の道を歩く、年老いた5人の男たち。それは「死」への接近を暗示します。ホドラーは後年、人間には「死」が迫るからこそ、われわれの「生」は躍動し、それぞれに異なる「リズム」をもつのだと語っています。この《オイリュトミー》には、そのような思想が描かれているのだといいます。「良きリズム(オイリュトミー)」という題意をもつこの大作は、ホドラーの「死」への意識が、むしろ「生」に対する関心に転じうるものであったことを物語ります。

Chapter 4
変幻するアルプス ― 風景の抽象化

世界の中にリズムや構造を見出そうとしたホドラーは、スイス・アルプスの自然からも、絶えず想像力を刺激されていました。「もっとも強い幻想(ファンタジー)は、無尽蔵の啓発の源泉たる自然によって養われる」─彼はそう語っています。そして1900年代以降、眼に映る風景を、次第に抽象化していきます。そこでは、山々の輪郭、湖面に映るシルエット、あるいは雲などが、一種の装飾的な図柄を構成する造形要素のようにして扱われます。たとえば、ホドラーがくりかえし描いたユングフラウ山やシュトックホルン山群、レマン湖といったアルプスの風景は、もはや再現的であることを超えて、抽象化された形態と色彩のパターンとして表わされるのです。


《シェーブルから見たレマン湖》

《シェーブルから見たレマン湖》
1905年、油彩・カンヴァス、ジュネーヴ美術・歴史博物館
© Musée d’art et d’histoire, Ville de Genève © Photo : Yves Siza

弾力のあるゴムのように伸びた白い雲が、そのシルエットをレマン湖に投影しています。空と湖は、水平線を境に画面を二分し、上下に平行するふたつの世界をつくり出しています。これはホドラーのいう「パラレリズム」の原理を表わしています。さまざまな空の表情を映し出す巨大なスクリーンのようなレマン湖は、ホドラーにとって、みずからの表現要素を見いだすための尽きることのない源泉でした。

《トゥーン湖とニーセン山》

《トゥーン湖とニーセン山》
1910年、油彩・カンヴァス、個人蔵

ニーセン山は、クーノ・アミエやパウル・クレーといった多くのスイス人画家を惹きつけた山でした。ピラミッド型をしたこの山の特徴的な形態が、風景を抽象化して描こうとする画家たちの意識を刺激したといえるかもしれません。その出発点にいたのがホドラーでした。彼はニーセンを単に再現的に描くのではなく、輪郭線を強調した三角形のフォルムで表わし、湖面に映る影や周囲の雲とともに、幾何学的なパターンとして再構成しています。

Chapter 5
リズムの空間化 ― 壁画装飾プロジェクト

ホドラーは、19世紀後半以降のヨーロッパに生じた装飾芸術運動の高まりの中にいました。チューリヒのスイス国立博物館のために制作したフレスコ壁画《マリニャーノの退却》(1897-1900年)、イエナ大学を飾った《独立戦争に向かうドイツ学徒の旅立ち》(1907/08年)、ハノーファー市庁舎の会議室に据えられた《全員一致》(1911-13年)、そして再びスイス国立博物館の壁画として構想された未完の《ムルテンの戦い》と、ホドラーは歴史場面を主題とするモニュメンタルな室内装飾を生涯にわたって手掛けました。これらの装飾プロジェクトにおいても、ホドラーは「パラレリズム」の方法によって人物の形態を反復し、連鎖させることで、動的な画面を構成しようとしました。それは絵画という平面において生じる視覚的なリズムを、いわば室内の「空間」にまで押し広げるような試みでした。それらの装飾プロジェクトを、習作とともに見ていきます。


《木を伐る人》

《木を伐る人》
1910年、油彩・カンヴァス
ベルン、モビリアール美術コレクション

1908年にホドラーはスイスの新紙幣のデザインを依頼され、有名な《木を伐る人》を手掛けました。スイスの国民性を象徴する意匠を生み出そうとしたホドラーは、労働する人間の姿を描いたのです。このイメージは、実際に50スイス・フラン紙幣に使用され、「国民画家」としてのホドラーの地位を決定づけることになりました。

《「全員一致」のための構図習作》

《「全員一致」のための構図習作》
1912/13年、油彩・カンヴァス、ジュネーヴ美術・歴史博物館
© Cabinet d’arts graphiques des Musées d’art et d’histoire, Genève © Photo: Bettina Jacot-Descombes

Chapter 6
無限へのまなざし ― 終わらないリズムの夢

装飾画家としてのホドラーは、1913年から1917年にかけて、チューリヒ美術館にある階段間のための壁画を制作します。最終的に5人の女性像によって構成されたその壁画は、画家自身によって《無限へのまなざし》と名づけられました。そこには、集団舞踏を思わせるイメージが描かれています。互いに類似する身ぶりをした女性たちが、水平方向に連鎖していくのです。それはおそらく、晩年を迎えつつあった画家が見た、終わらない「リズム」の夢でした。ホドラーの生涯におけるハイライトとなったその作品を、習作によって概観します。


《「無限へのまなざし」の単独像習作》

《「無限へのまなざし」の単独像習作》
1913/1915年、油彩・カンヴァス、ジュネーヴ美術・歴史博物館
© Musée d’art et d’histoire, Ville de Genève © Photo: Bettina Jacot-Descombes

ホドラーは壁画《無限へのまなざし》のために無数の習作を残しました。これは壁画中央に立つ女性像の油彩習作です。単独で見れば、あまりの動きのない人物像ですが、5人の女性像が水平に並んでひとつの画面をなすとき、彼女らの身ぶりは連鎖し、画面の外へとつづいていくようなリズムを生じさせます。

Chapter 7
終わりのとき ― 晩年の作品群

折しも《無限へのまなざし》を制作していた頃、ホドラーは癌におかされた20歳年下の恋人ヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルの死を見つめていました。彼は、刻々と衰えていく病床のゴデ=ダレルの姿を素描によって記録し、ついには死した彼女を、まるでキリストの遺骸のごとく描きました。そして、そのゴデ=ダレルの死から3年後の1918年、ホドラー自身も彼女を追うように、ジュネーヴで没します。けれども、恋人の死に立ち会った晩年のホドラーは、決して悲哀に沈んだのではありません。彼はそれ以後も、アルプスの風景と変わらず向き合いながら、しかしそれらを、かつてよりもいっそう抽象化した色面と表現主義的な色合いで描きました。


《バラの中の死したヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルの遺骸》

《バラの中の死したヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルの遺骸》
1915年、油彩・カンヴァス、チューリヒ、コーニンクス美術館
© Musée d’art et d’histoire, Ville de Genève © Photo: Yves Siza

1915年1月25日の午後に亡くなったヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルの遺骸を、ホドラーはその翌日に数度にわたって描きとめました。痩せこけて皮膚が変色した遺骸を、真横から即物的なものとして見つめるホドラーのまなざしは、バーゼル美術館に所蔵されるハンス・ホルバイン(子)による《墓の中の死せるキリスト》の構図と生々しい死体の描写を想起させる一方、バラを配した薄紅の空間は、それがあたかも心象風景であるかのような印象を与えます。

《白鳥のいるレマン湖とモンブラン》

《白鳥のいるレマン湖とモンブラン》
1918年、油彩・カンヴァス、ジュネーヴ美術・歴史博物館
© Musée d’art et d’histoire, Ville de Genève © Photo: Yves Siza

ホドラーの没年である1918年に制作された作品です。このとき、画家はもはや身体の自由を失い、戸外で絵を描くことができなくなっていました。そのため、住居の窓越しから見るレマン湖とモンブランの風景を描きつづけたのです。本作は、同時代の表現主義にもつうじる鮮やかな色彩表現とリズミックに配された白鳥たちの形態において印象的です。